2024年の7月3日にとうとう新紙幣が発行されましたね。
すでにお財布に新紙幣が入って人もいるのではないでしょうか。
ところで、新紙幣の人物の名前は覚えましたか?
一万円は渋沢栄一、五千円は津田梅子、千円は北里柴三郎ですね。
名前は覚えたけど何を行ったか人物か詳しく知らないという人も多いと思います。
コラムを書いている私もその一人です…!!
今回のコラムでは、新紙幣の3人について一緒に勉強していきましょう!
●北里柴三郎
北里柴三郎は「近代日本医学の父」と呼ばれる細菌学者です。
現在の熊本県阿蘇郡小国町で床屋の息子として生まれた柴三郎は、
医学の道を志し、熊本医学学校と東京医学校で学識を深めます。
学生の頃の柴三郎は
「研究は目的の如何に関わらず、実際に役立つ医療・予防の上に結実されるべき」という考えを強くもつようになります。
卒業後、内務省衛生局に奉職しドイツに留学。病原微生物の研究に励みます。
そして、1889年に世界初となる破傷風菌の純粋培養に成功します。
翌年には破傷風菌の毒素を中和する抗体を発見し、「血清療法」を開発します。
「血清療法」とは、毒素を無毒・弱毒化して少量ずつ注射すると、
体内でその抗体が作られ、病気の治療や予防が可能になるとう方法で、
まだ伝染病に対する有効な療法がなかった当時は画期的な治療法でした。
1892年に帰国すると、福澤諭吉等の援助をもらい、私立伝染病研究所を設立し、所長として研究に取り組みます。
その後、北里研究所や慶應義塾大学医学部、日本医師会の創設に携わり、研究と教育の両面で日本の医学の近代化を強力に牽引しました。
写真に使われてる肖像画は、学者としての地位が確立し、
働き盛りで充実した雰囲気のある50歳代の写真を参考として描かれているそうですよ。
●津田梅子
津田梅子は明治の教育家で、女子専門教育の先駆者です。
1864年、東京の御徒町で誕生しました。
父親は先進的な考え方を持つ農学者の津田仙(つだ せん)です。
梅子の人生は、父の仙によって大きく舵をきられます。梅子を6才のときに「岩倉使節団」の一員として渡米させられなんと11年間、アメリカの家庭で育てられました。
17歳になった梅子が帰国。
当時の日本はようやく日本銀行券が発行され、内閣制度がスタートするなど、女性の社会進出どころの話ではありませんでした。
男子留学生に職は与えられても、梅子には政府や開拓使から仕事が与えられることはなかったのです。
梅子は伊藤博文の家の家庭教師を経て、「華族女学校」の英語教師に就任します。
その後、24歳でアメリカに再留学、ブリンマー大学で質の高い教育を受け、女性にとっての教育の重要性を再認識しました。
帰国後、華族女学校、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)で教鞭を執った後、1900年、女子英学塾を創設。生涯を通じて、女性の地位向上と女子高等教育に尽力しました。
写真に使われてる肖像画は、津田梅子の教育者としてのキャリアが確立した年代である30歳代の写真等複数枚を参考として描かれたそうです。
●渋沢栄一
渋沢栄一は1840年に現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。家業を手伝う一方で、幼い頃から父親に学問の手ほどきを受けています。
その後里を離れ、のちに江戸幕府の15代将軍となる一橋慶喜氏に仕えます。
栄一は27歳の時、慶喜の実弟徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学、さらに欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会を目の当たりにしたのです。
明治維新が起こり、欧州から帰国すると、大蔵省の官僚として、造幣、戸籍、出納など、さまざまな政策立案を行い、新しい国作りに深く関わります。
退官後は実業界に転じ、日本初となる銀行「国立第一銀行」の設立をはじめ、生涯に約500もの企業に関わったほか、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、「日本の資本主義の父」と呼ばれています。
写真に使われてる肖像画は、70歳の古希のお祝い時に撮影された写真を参考として描かれました。
ただし、若々しさを表現するため、60歳代前半にリメイクされているそうです。
まとめ
ざっくりですが、新紙幣の人物のお話をしました。3人ともお札になるだけあって、偉大な方ばかりでしたね!
これから長く使うお札なので、すこしでも馴染みが持てればいいですね。